ライトノベル批評
 キノの旅  

カバナス・セイジン
(2000.10)
 
「速度は、技術革新が人間に贈った忘我の形式である」ある作家がそう書いていた。オートバイにまたがって、危険を考えず、ひたすらに前を見つめて疾走する男。その男を見ての言葉。最近はあんまり見かけなくなったから、暴走族はとっくに時代遅れのスタイルなのだろうけど、速さへの願望というものは減びることはない。
なぜ速さは魅力的なのか?
考えずにすむから。というのが単純で、そして正しい答えだ。たぶん。ややこしい人間関係とか、安請け合いした約束とか、遅れた支払いとか、たまったレボートとかーそういった碌でもないことを忘れるのに都合がいい。速さに身を委せている間、我々は「忘我」の状態にいることができる。目の前を過ぎ去る風景は、ただの背景にすぎない。芝居の書き割りみたいなものだ。書き割りについて真剣に考える人はいないし、責任を感じることもない。
 旅行中の人間に共通するメンタリテイーも、これに似たものだろう。あれがきれいだ、これが美味しい、情緒がある、人が親切、空気が違う、星も見えるし、もう帰りたくないなどと、安易に言う。日常を離れて、余計なことを考えず、快適な心地よさにどっぷり浸かつている.
長々と何を言っているかというと、要するに問題はこの心地よさ。
 旅する人々の物語はこの解放的な心地よさに満ている。星の王子だって、銀河鉄道(999の方ね)だって、水戸黄門だって、みんなそうだ。もちろん、旅先にはいろいろと不愉快なことだってあるし、悲惨な出来事を目撃したりもする。でもそういったことが、本当にシリアスな意味をもつことはない。旅行者は、ただその場所を立ち去れぱよいからだ。
 問題はたまたま訪れた、その土地のものなのだ。「ぼくの問題じゃあない」最後はそう言って立ち去ればいい。お好みならば、ささやかな悲しみを湛えてもいい、蔑みの笑みを浮かべてもいい、怒りを爆発させてもいい。でも最後まで付き合うことはない。旅人には責任なんてないのだから。
キノは正体不明の旅人だ。実は女のコだっていうお約束は、まあ置いておくとしても、セクシユアルな雰囲気は最後までない。生い立ちも(ほとんど)謎だし、そもそもなんで旅をしているのかも分からない。感情的になることがない。なにかに固執することがない。欲望を持たない。必要とするものといえば、食物と泊まるところだけだ。友達はオートバイだけである。しがらみというものがない。シンブルで、奇妙に漂自された存在。
『キノの旅』
時雨沢恵一著
イラスト
 黒星紅白
電撃文庫
(2000.7)
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