ライトノベル批評
 キノの旅  

カバナス・セイジン
(2000.10)
 
 そしてなんだかよく分からないけれど、強い。なんだかよく分からないけど、銃の使い手である。なんだかよく分からないけど、いろいろと事情を抱えていそうだ。なんだかよく分からないけれど、儚げである。なんだかよく分からないけれど、とにかく凄い奴らしい。神秘である。そこになにを読み取るかは、読者の自由であって、あらゆる可能性が許されている。
 神秘は旅を続けてゆく。行く先にはいろんな国がある。そこではいろんな人が、いろいろと愚かしいことを続けている。もちろんそこには様々な事情があり、歴史があり、思惑があるのだろうけれど、神秘はそんなことには関わらない。神秘は旅人という資格で、その国を訪れているからだ。肯定もしないし、否定もしない。あくまでもクールである。なんだか西部劇のヒーローを見せられている感覚だ。そしてそれは心地よい感覚である。読む方もまた、神秘に同化するからだ。
痛みを伴わない、心地よい感傷。身勝手な心地よさ。一方的で、無責任で、倣慢で、偽善に溝ちている。
 「いろいろ事情があるんだよ」というのはよく耳にする言い訳だけれど、それはそれなりに切実さをもっている。物事がそうなってしまうのには、一言で説明できない「いろいろ」がある。だから我々は「まあ、いろいろだよね」と応じて、日々をなんとか乗り切ったり、乗り切れなかったりしているわけだ。けれどこういう暗黙の了解がまるっきり成立しない空間というのがやはりあって、そこでは白黒がはっきりしないことは許されない。
 小説というのはたしかにそういう空間であって、わりと残酷な断定がまかり通ってしまう。一方はクール、他方はスノッブ。そういう断定の仕方が正しいかどうかというのは、まぁこの際は間題じゃない。心地よいのだからそれでいいじゃないか。たしかに。その通りだ。全面的に賛同する。我々は日常のいろいろを見るために、ファンタジーを読むわけではない。そういうのが見たいなら、19世紀リアリズムがある。私小説がある。昼のメロドラマがある。橋田寿賀子がある。
 だから神秘は、自分の「いろいろ」を語ってはいけない。個人の事情を、歴史を、思惑を神秘が語りはじめた時、なにが起こるだろうか。旅はそこで終わってしまうのだ。旅人の資格は剥脱され、忘我は終わり、速度は落ち、失速が始まり、停止が訪れる。心地よさは消え去り、あとには疾しさしか残らないだろう。それはもう最悪の事態だ。だから旅は続けなけれぱならない。止まってはいけない。旅路の果ては否定されなけれぱならない。
世界が「美しい」と言い続けるために。
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