文学批評
 『ニッポニア・ニッポン』

カバナス・セイジン
(2001.9)
 
 ひきこもりの、元ストーカーの少年がインターネットで情報収集。妄想が描く、トキ=国家=共同体vs自分という反抗の物語。そして誇大妄想の行き着く果ての殺人、破滅。と、これだけ並べたてれば、どうしようもなくわざとらしい道具立てで、なんだかなあという気分になる。いや、もちろん、小説が現代風であったり時流に沿ったものであることがいけないというわけではなく、いやむしろ逆で、常に時代状況との切迫した対峙があったればこそ、すぐれた作品は生まれるのではなかろうか…と、そういう乱暴な一般化はこの際は、まあ脇に避けておくとして。要は、ごく単純な話。ニュースで見たような犯罪、新聞の論説で読む事象、どこかで聞いたあの事件。そういった諸々が小説で扱われたとき、率直に「ちょっと引く」「寒いっ」と感じること。出世作『インディビジュアル・プロジェクション』以来、阿部和重という作家には、常にこの「寒さ」がつきまとう。「意図は分かってもそれが力になって押し寄せてこない」というのは、芥川賞の選評。「現代的な当て込み」が鼻につくとも評されていた。どうも文壇からも、お寒い作家として認知されてしまった模様。
 しかしそもそも、こういった「現代的な」問題を描くことが、阿部和重の目的だっただろうか。普通に考えたって、『ニッポニアニッポン』は明かにやりすぎである。過剰に現代的でありすぎる。ときに、バカバカしく感じられるほどに。そしておそらく、阿部和重が描こうとするのはこの「過剰さ」のほうである。つまり「現代的な」小道具を散りばめてゆくという、そのことだけで小説が成立してしまうという事実。複雑に葛藤する主人公も、魅力的な登場人物も、入り組んだ状況もすでに用済みである。たとえばヒロイン(とたぶん言ってよいのだと思うけれど)が、色白・小柄・メガネ・たれ目・丸顔・三編みで、庇護欲を掻き立てる女の子と描写される。

『ニッポニア・ニッポン』

阿部和重著

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