式日  

カバナス星人
(2001.2)
 
 けれど、それ以上に見るべきなのは映画の中で繰り広げられる、「カントク」が「彼女」を被写体とするという構図、そのものである…というとなんだか胡散臭い映像理論のようだけれど、要は「彼女」のビョーキな妄想を、受けとめつつ客観化する「カントク」の位置付けのことである。『式日』には、庵野式映像で彩られた「彼女」の妄想の世界がある一方で、その世界を相対化するための「カントク(=監督)」の視点が別に設けられている。ネタバレするのでちょっと何なのだけれど、最後の方にドキュメント調で撮られた長い1シーンがあって、それがとても印象的だった。つまり何が言いたいのかというと、あくまで庵野秀明個人の美意識に基づく世界が繰り広げられる一方で、それを現実に引き戻して日常のなかに落とし込んでいくベクトルもまた働いているということである。『式日』を映像美云々で語ることは、だからそれほど意味のあることだとは思えない。問題はむしろ、そうした映像美の世界を冷たく引き離す監督のスタンスの方にあるのではないか、という気がする。「映像は現実を都合よく切り取るだけだ」というセリフも、先の愚痴のようなモノローグの中に出てくる。たしかに『式日』で庵野秀明が追求したかったのは、映像の美しさよりも、そういう美しさを求める方向そのものの見直しだったのかもしれない。
 エヴァンゲリオンのヒット以降<視聴者に適度の心地よさを与えるだけの映像>に、庵野秀明が疑問を持ち始めたというのはたぶん事実で、そのことを問題視する姿勢が、結果的に『式日』を生んだと言えるだろう。そういう映像作家としてのストイシズムみたいなものには、たしかに恐れ入る。ただそれを作品にした結果、結局それはただの個人的な愚痴にしかならなかったというのもまた事実ではないか?原因はとりあえず、先に書いたようにセリフのセンスがヒドイということ。けれど、もっと突っ込んで考えるならそもそも、そんな不満を持つ権利が作家の側にあるんだろうか、と問うことも出来る。作家のストイシズムとは結局、<心地よさを与えるだけ>のものでもなんでも、それを作り続けることに尽きるのではないのだろうかと、いくぶん無責任にだけれども、2時間8分の長大なプライヴェート・フィルムを見終わった後に、そう思った。今後の庵野秀明がどんな作品を撮るのか。今回でプライヴェートな毒を全部出し切って心機一転、さっぱりと心地よい作品を作るのか、それともぬかるみに潜って(嵌まって)ゆくのか分からない。たぶん庵野秀明本人にも分からないんじゃなかろうか。
『式日』
監督
庵野秀明

3/10まで、
東京都写真美術館で公開

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